[原创]《绝不宽恕、绝不忘记》

6楼
[QUOTE][b]下面引用由[u]小土豆[/u]发表的内容:[/b]

不能忘记, 亦不敢忘记.
不过, 南京大屠杀是一宗很值得我们深入研究的课题.
日本军人的残暴, 令人发指.
可是大部份中国人都只是知南京大屠杀是血债, 很少会较深入探讨事件经过, 原因(不能单单...[/QUOTE]
请同胞们不要忘记:小日本至今仍然把在南京大屠杀中,两位杀了360个中国人的状元,当作英雄屹立在小日本的国土上!

7楼
[QUOTE][b]下面引用由[u]沧海一笑[/u]发表的内容:[/b]

他跑到中国来杀平民百姓,就是讲出几万条理由也站不住脚.[/QUOTE]
说得有理!
一个不知道复仇的民族是劣等民族!
8楼
对的. 这绝对是可耻的.
天水君何不把这二人的名字贴出来, 让他们的名字永远被我们钉在耻辱柱上?
在日本, 他们的立像在那儿? 是那个团体立的? 目的是什么? 有多少人知道? 认同?
这些问题的答案或可更使我们加深了解.
9楼
[QUOTE][b]下面引用由[u]小土豆[/u]发表的内容:[/b]

侵略者固然不可原谅, 屠杀人民亦罪无可恕. 可是我们不能成为激进的另一极端, 多了解实情, 绝不会是坏事, 亦对防止悲剧重演有积极的意义.
前数天我是在朋友家看有关南京大屠杀的特辑的, 当时朋友的小...[/QUOTE]
应该教育我们的子孙,我们珍惜和平,但时刻不能忘记复仇!伟大领袖毛主席教导我们:“人不犯我,我不犯人;人若犯我,我必犯人。”不是不报,时候未到!
10楼
[QUOTE][b]下面引用由[u]沧海一笑[/u]发表的内容:[/b]

先看看日本人是怎样教育下一代的,就知道下一步有可能发生什么了。[/QUOTE]
我们现在要做的事情,除了发展经济之外,更重要的是要教育国民要有强烈的民族意识!让那些犯下滔天罪行的日本人后代,从此没有安稳的日子好过!因为他们至今都没有悔过!
11楼
向井 敏明(日文:むかい としあき,-1948年1月28日),日本战犯。
1937年至1938年南京大屠杀期间,在日本侵军派遣军第16师团九联队担任少尉军官。与另一少尉军官野田毅展开"百人斩"杀人竞赛,以先斩杀一百个人者为胜。据1937年12月13日《东京日日新闻》(今《每日新闻》)报道,向井与野田两个在10日中午持斩得豁口的军刀相会时,一个屠杀了106个而另外一个屠杀了105个中国人,于是两人继续比赛先杀一百五十人为胜。1945年日本投降后,参加东京远东国际军事法庭对日战犯审判的中国代表无意间发现了这个报道,立即通知中国南京,两名日本军官被引渡回中国。经南京军事法庭查明审判,两人均承认控罪,于1948年1月28日在南京中华门外雨花台刑场被执行枪决。
2003年4月28日,在日本右翼势力的怂恿下,南京大屠杀“百人斩”杀人竞赛刽子手向井敏明、野田毅遗属向井千惠子等3人,向东京地方法院提起诉讼,控告日本《朝日新闻》原记者本多胜一、“柏书房”、朝日新闻社、每日新闻社的相关报道、著作违背事实,侵犯了当事人及其家属、遗属的名誉权,要求谢罪、停止侵权行为并支付赔偿费用,企图对“百人斩”历史进行翻案。
  据侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆馆长朱成山研究员介绍:“百人斩”事件是南京大屠杀中具有代表性、象征性的事件。日本战犯向井与野田的三名遗属,以名誉损害为由,状告日本媒体、出版社及记者本多胜一,标志着日本右翼首次通过司法途径,挑战当年法庭定论的历史案件,其目的就是要推卸日本的战争责任,否定南京大屠杀,进而全面否定侵华战争的罪行。
  据悉,被告本多胜一及其律师团尾山宏、小野寺利孝、渡边春己、山田胜彦、南典男、穗积刚等律师,为了取得案件的胜诉,维护历史真相,曾多方调查取证。他们到南京取证时,朱成山研究员还专门为其提供了书证。
23日,东京地方法院作出一审判决,驳回原告请求。

这是在网上搜寻到的书库大正的日文记录, 记述了事件经过及日本战后企图把二人罪行模糊化.  小土豆的日文不好, 如有日语高手, 请指正.

日本軍/日中戦争/南京攻略/将校/百人切り競争》
●85 日本軍の二将校、手柄話に常州で「百人斬り競争」敢行と報道。【1937年/昭和12年12月01日/大阪毎日(夕刊)】
#1
 [常州にて二十九日光本本社特派員発] 常熟、無錫間の四十キロを六日間で破った○○部隊の快速は、これと同一距離の無錫、常州間をたった三日で破ってしまった。神速といおうか何といおうか、たとえようもないこの快進撃の第一線に立つ片桐部隊に、「百人斬り競争」を企てた青年将校が二名ある。しかもこの競争が無錫出発の際初められたというのに、一人はすでに五十六人を斬り、もう一人は二十五人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(山口県■■郡神代村出身)、もう一人は同部隊野田毅少尉(鹿児島県肝属郡田代村出身)である。この二人は無錫入場と同時に直ちに追撃戦に移った際、どちらからともなく、「南京に着くまで百人斬りの競争をしようじゃないか」という相談がまとまり、銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉も無銘ながら祖先伝来の宝刀を誇るといったふうで互いに競争するところあり、無錫進発後、向井少尉は部下を率いて鉄道線路北六、七キロの線を大移動しながら前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、いったん二人は分かれ分かれになったが、出発の翌朝、野田少尉は無錫をさる八キロの無名部隊で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたが、このことを聞いた向井少尉は奮然起って、その夜、横林鎮の敵陣に部下とともに躍りこみ、五十二名の敵兵を斬り捨ててしまった。その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、最後に二十九日、常州駅で六名と合計二十五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り、記者ら(光本、浅海、安田各本社特派員)が駅に行ったとき、この二人は駅頭で会見している光景にぶつかった。両少尉は語る。
#2
 <向井少尉> この分だと南京どころか丹陽で、俺の方が百人くらい斬ることになるだろう。野田の負けだ。俺の刀は五十六人斬って、刃こぼれがたった一つしかないぞ。
 <野田少尉> 僕らは二人とも、逃げるのは斬らないことにしています。僕は○官をやっているので成績はあがらないが、丹陽までには大記録にして見せる。
#3
 記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」と水を向けると、何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのり赤らめて照れること照れること。
[出典:毎日コミュニケーションズ出版部編 昭和ニュース事典 第Ⅵ巻、p.529.]
<memo-1> (「昭和ニュース事典」掲載の注):この「百人斬り競争」が事実であったかどうかについては、戦後日本の研究者の間で問題とされ、決着はついていないが、中国側はこれを事実と認定し、捕虜殺害の戦争犯罪として両将校を断罪、処刑した。


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