(九十)
讀謝鵬雄先生的”東瀛女史”, 中有一章說及日本明治女詩人與野晶子的”弟弟, 你絕不可死”, 大為震動:
啊,弟弟,我為你哭, 你絕不可死。生為末生兒, 父母深疼愛,從未曾導教你, 握刀去殺人。養你二十四 歲,不為教殺人。
堺港舊城市,吾家夸老鋪,你當繼祖業,慎勿輕生死。旅順城將陷,不陷又如何,我家世經商,不豫征戰事. 你絕不可死,天皇居九重,征戰不親臨,殺伐血成河,死淪畜生道,猶以死為榮,聖心稱仁慈,為何忍坐視?
啊,吾弟你在戰場,慎勿輕生死。爹爹去秋逝,S寡母獨守家,子離家蕭索,雖然稱聖代,頭上白髮增。
暖簾影下泣,弟媳日夜悲,你尚記憶否,新婚才十月,少女情何堪,唯望再團圓,此外更何求,你慎不可死!
此詩一出, 社會言論皆指女詩人為”亂臣賊子”, 一時口誅筆伐, 直至二戰後, 與謝野晶子的詩才為日本人接受和追捧.
以當時的盲目忠君愛國氛圍而敢寫出胸臆並挑戰天皇的無上權威, 確令人肅然起敬.
今附上該詩原文如下:
君死にたまふことなかれ
(旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末(すゑ)に生れし君なれば
親のなさけは勝(まさ)りしも、
親は刄(やいば)をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四(にじふし)までを育てしや。
堺(さかい)の街のあきびとの
老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事(なにごと)ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家(いへ)の習ひに無きことを。
君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出(い)でまさね[#「出でまさね」は底本では「出でませね」]、
互(かたみ)に人の血を流し、
獣(けもの)の道(みち)に死ねよとは、
死ぬるを人の誉(ほま)れとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何(いか)で思(おぼ)されん。
ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君(ちゝぎみ)に
おくれたまへる母君(はゝぎみ)は、
歎きのなかに、いたましく、
我子(わがこ)を召(め)され、家(いへ)を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代(おほみよ)も
母の白髪(しらが)は増さりゆく。
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻(にひづま)を
君忘るるや、思へるや。
十月(とつき)も添はで別れたる
少女(をとめ)ごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰(たれ)を頼むべき。
君死にたまふことなかれ。
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